史実の「水戸黄門」は、若いころグレにグレていた!
実際の光圀が遠出した記録を当たってみると、鎌倉に養祖母・英勝院の菩提寺があり、ここに数度足を運んだというのが、せいぜいなのだ。
ではなぜ、「漫遊」のイメージが定着したのか。
実は、若い頃の光圀はグレにグレていた。かぶき者のような華美な着物を身に着け、江戸屋敷を抜け出しては遊郭に通う。気に食わないことがあればすぐ刀を抜いて暴れ、因縁をつけて人を切る。
ところが18歳のとき、中国の歴史書『史記』を読んで感動したのを機に、人が変わったように勉学に打ち込むようになったという。
そして、自身も歴史書『大日本史』の編纂を思い立ち、佐々介三郎という、助さんのモデルとなる儒学者を全国各地に派遣。史料の調査、収集をさせた。
この佐々による調査が巷間に言い伝えられ、18世紀半ば頃になると、光圀本人が各地の大名の政治を視察する内容の小説『水戸黄門仁徳録』(作者不詳)が生まれる。
それが幕末以降に全国的な広がりを見せ、現在の「黄門像」が定着したというわけだ。
『大日本史』編纂は、なんと明治時代まで続けられ、もともと楽ではなかった水戸藩の財政に莫大な負担をかけ、光圀の死後、農民による大規模な一揆も起きている。
史実の光圀は、ドラマの中で成敗されてもおかしくない、ダメ藩主だったのかもしれない。
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